「はぁ?」
あまりの言葉に、相手が教師であることを一瞬忘れてしまった。もともと教師として尊敬している相手ではないが、それでもそれなりの対応はしているつもりだった。だが、思わぬ展開に言葉が荒くなる。
「カンニング? 私が?」
眉をしかめる美鶴に、門浦はオロオロとしながら、差し出した紙を再度突き出す。ひったくるように受け取ったものは、数学の答案用紙だった。だが、それに視線を落とすことができなかった。
ガラスの向こうで、男子生徒が室内を見つめている。いや、正確には美鶴を見つめている。
学生鞄を脇に抱え両手をズボンのポケットに入れて立つその姿は、ヤケに落ち着いて見えた。威圧感などという言葉とは程遠い、むしろ風が吹けば飛んでいってしまいそうなほど静かに立つのに、どうしてだかその存在を大きく感じる。
美鶴と視線が合うと、その生徒は目を大きくしてにっこりと笑った。美鶴は息を呑んだ。だが、声を出したのは美鶴ではなかった。
「っんな・・・」
間抜けた声がすぐ耳元に聞こえて、とっさに立ち上がった。振り向くと、いつの間にか門浦がすぐ背後に立っている。美鶴が門浦に目を丸くしている隙に、男子生徒は扉を開けて中へ入ってきた。
「長くかかりそうですか?」
門浦はしばらくの間、声をかけられたことすらわからない。
「・・・ き、君は」
「あ、僕は山脇瑠駆真です。四月から二年二組に転校してきました」
そう言って山脇は、長身を軽く折って頭を下げた。すっきりと切られた癖のない髪がサラリと揺れる。
二組の転入生と聞いて門浦は納得したらしい。カクカクと小刻みに首を縦に振った。だが、声は言葉になっていない。そんな門浦に対して山脇は、あくまで愛想よく言葉を続ける。
「あの、邪魔するつもりはありませんけど、あとどれくらいかかりそうですか?」
美鶴はそこでようやく我に返る。手元の用紙に見入った。
校内模試で使われた数学の答案用紙。だが、そこに記入されている文字は、美鶴のものとは似ても似つかない。氏名の欄には名前もない。
「先生」
弾かれたように見返す門浦へ、ズイッと用紙を突き出した。
「これ、私の答案用紙じゃありません」
門浦は、美鶴の手から用紙をひったくった。あまりの勢いに、さすがの美鶴も目を丸くしたが、門浦は気にする様子もない。そうして眼鏡に手をかけながら用紙に視線を落とし、ブルリと身を震わせて視線をあげた。
「こ・・・ これは、私としたことが」
声もかなり震えている。
「も、申し訳ない。私のとんだ勘違いのようだ。本当に申し訳ない。なんと言ったらよいのか・・・ その、この件はその・・・ その、無かったことにしてくれないか」
もしここで美鶴が責めるようなら、門浦は心臓に発作を起こして倒れてしまうかもしれない。蒼白した顔と噴出す汗を見ていると、美鶴はため息が出た。
「別にいいですよ。間違いってわかれば」
美鶴の一言に、門浦は大きく息を吐くとそのまま摺り足で入り口へ向かった。そうして、引きつる笑顔を二人に向け、背中手で入り口を開ける。これから職員会議があるからと非常に聞き取りにくい言い訳を並べながら、外へ足を出した。そうして扉を閉めた途端、くるりと背を向けると、重そうな身体を揺すりながら一目散に去っていった。
「誰だっけ?」
山脇の声が聞こえても、美鶴はガラス越しにその姿を見ていた。濡れ衣を着せられそうになったとは言え、あまりの醜態には腹も立たない。逆に少し、笑えた。
名前もない答案を、なぜ美鶴のだと思ったのだろうか? 美鶴なら、カンニングくらいしかねないと思ったのだろうか? それとも、カンニングをしてくれればいいと、思ったのだろうか?
「大迫さん?」
再び声をかけられて、美鶴はハッと身を震わせた。
横では、大きな目をさらに大きくさせて覗き込む山脇の小顔がある。
「ごめん。考え事?」
「別に」
冷たく答えたつもりだが、相手はまったく不愉快そうな表情を見せない。むしろ、少し申し訳なさそうだ。
「邪魔しちゃったみたいだね」
「別に。もう済んだことだから」
「誰だっけ?」
「数学の門浦」
美鶴の言葉に山脇はあぁと声をあげた。
「そうだ。学校内で見たことはあったんだけど、名前忘れちゃってた。なんか追い出しちゃったみたいだね。失礼なことしたかな?」
「別にいいんじゃない」
「そう?」
山脇も、口で言うほど失礼だとは思っていないのだろう。疑問が解決して明るく笑う彼とは対照的に、美鶴は居心地が悪かった。山脇とは視線を合わせず、背を向ける形で腰掛ける。
山脇は、なぜここにいるのだろうか?
そんな美鶴の心内を感じたのか、山脇はゆっくりと美鶴の正面へまわりこんだ。
「大概はここにいるって聞いたから」
「私? 何か用?」
「用ってワケじゃないけど、ちょっと話でもしたいなと思って」
「何を話すワケ?」
美鶴のぶっきらぼうな態度に肩をすくめながら、ひょいっと室内を覗く。ゆっくりと壁のパネルの方へ足を向けた。鞄を机の上へ置き、後ろ手に組んで興味深気に見入っている。
ゆったりとした柔らかな、でもなんとなく大きな存在感を背中に感じる。美鶴は、どうにも我慢できなくなって立ち上がった。
「ずいぶんと変わったね。名前を聞かなかったら同じ人だとは思えない」
それは、今までのように柔らかな口調ではあったけれど、ひどくはっきりした言葉でもあった。美鶴は背を向けて立ったまま、動けなかった。
「あんたなんか知らないって言ってるでしょう」
「でも、宮田中学だろ?」
確かに美鶴は隣の県にある宮田中学出身だ。特に有名な進学校というワケでもなく、今の学校で知る者はほとんどいないだろう。知る者もいないし、いてほしくない。
美鶴は振り返ると、不愉快そうに相手の背中を睨む。その視線を感じてか、山脇もゆっくりと振り返った。
「なんだか、触れられたくないってカンジだね。そもそも、こんな遠くに進学してきたってのもヘンだし」
「あんたには関係ない」
「僕が転校してから、なんかあったの?」
「あんたなんか知らないって言ってるでしょうっ!」
苛立ちながら怒鳴る美鶴に、山脇の表情は少し翳った。
「何か、ヘンだね。本当に大迫さんじゃないみたいだ」
「あんた、何言ってんのよ!」
強引に相手の言葉を遮ったとき、背後で扉の開く音がした。
驚いて振り返ると、入り口で少年が立ち尽くしている。
「美鶴。やっぱり美鶴だ」
声も出なかった。
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